「日本人の間に集団ヒステリーとパニックを起こすのに大きな歴史的役割を果たしてきた2つの顕著な要素がある。
それは、『火山の噴火』と『地震』。
この2つが経済的にひどく追い詰められた時に起こると、その後に社会的混沌が続いた。
そこでアメリカは、日本人は地震と火山の噴火でパニックに陥り、自国アメリカのように社会秩序も乱れ、暴動が起き、統治不能な状態になると考えたらしい。
アメリカOSS「戦略事務局」(CIA「中央情報局」の前身)作成機密文書「日本本土への地震兵器による心理的軍事作戦」(「原本資料」全14ページ中10ページから抜粋)によると、「THE FINAL REPORT OF PROJECT SEAL」と書かれた「テキスト資料」のタイトルの意味は、「封印計画の最終報告」というもの。
この全30ページほどの中にニュージーランド沖で実際に繰り返された人工地震に連動して起こされた巨大津波の写真と分析データが詳細に記載されている。
これらの津波写真は他ではない、日本本土に対する攻撃のためにシミュレーション実験され、データ収集された報告書ということになる。
これらの資料は1945年にCIAの前身である米戦略事務局OSSによって作成された機密計画書で、いずれの内容もアメリカが日本を人工地震兵器で襲うことに言及している。
「PHYCHOLOGICAL WARFARE EARTHQUAKE PLAN AGAINST JAPANESE HOMELAND」と書かれた「原本資料」のタイトルの意味は「日本本土への地震兵器による心理的軍事作戦」。
米国は既に、66年以上前から地震兵器を研究、所有しており、この機密計画書は2005年4月に米国で公開された。
この報告書によれば、第二次大戦末期の1944年にカリフォルニア大学のバイヤリー教授を中心とする地震学者たちが総動員され、「日本近海のどこの海底プレートに強力な爆弾を仕掛ければ、人工的に巨大な津波を起こせるかシミュレーションを繰り返した」と書かれています。
ここでいう「強力な爆発物」とは、もちろん当時開発まもない「原爆」のこと。
この文書には「日本本土攻撃作戦」の副題が付けられ、「悪魔の攻撃」と呼ばれる章では、「日本人の目を覚まさせるには地獄に飲み込まれたと思わせる必要がある。
そのためには、地震を恐れる日本人の特性を徹底的に突くべし。
地震攻撃に勝るものはない」と定義し、この一連の報告書には第二次大戦の終戦方法について「人工地震兵器で津波を起こして日本を降参させて終戦するか、原爆を落として終戦するか」と会議された記録もある。
当時の米軍における研究開発部門の責任者であったスタンレー・ロベル博士やマーシャル・チャドウエル博士の分析によれば、「日本の周辺にある海底のプレートをピンポイントで爆破すれば、巨大な津波を発生させることが可能となる。
目標とすべきプレートの周囲8Km内に爆弾を仕掛ければ、1年以内に狙った場所で地震を起こすことができ、津波も誘導できる」と結論付けている。
東南海地震、三河地震――第二次大戦末期、「地震・津波兵器」は、日本の軍需工場地帯を襲っていた
この機密計画書の最後には「地震・津波攻撃の目的は日本人をパニックに陥れることで、神国日本や軍部独裁に対する不信感を醸成することにある。日本人が国家を捨て、個人の生存を第一に考えるようにするためのショック療法ともいえる」と記され、その会議以降、その年の内に地震兵器はそれが強大な兵器による人工的な日本への攻撃であることを知られずに、あたかも自然災害でもあるかのようなふりをして終戦直前ついに実用化された。
その実用が1944年12月7日です。
志摩半島南南東沖約20Kmを震源として発生したM7・9の「東南海地震」。
愛知、三重、静岡などで1223人の死者・行方不明者が出ています。
詳しくは当ブログ「放射能シンドローム」の動画ををご覧ください。
https://blog.seesaa.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=222133554
米国の新聞は、「観測史上最大規模の大地震」、「大阪から名古屋にわたる軍需工業地帯に大損害」と誇らしげに戦果を報じている。
このときの津波は15mにも達し、志摩半島南岸などで村々を壊滅させたといいます。
当時、米国が攻撃目標としていた、三菱重工、安立電気、中島飛行機などの工場乱立地帯がピンポイント的に壊滅的打撃を受けました。
大地震が起こったのがちょうど軍需工業地帯だとは、いかにも出来すぎた話でおかしいと当時から度々うわさされていたようです。
まして後日、「地震の次は何をお見舞いしましょうか?」と毛筆で書かれたビラがB-29からまかれたとなると、多くの人は「アメリカがやった」と思った事でしょう。
さらにこの地震に追い打ちをかけたのが、B29爆撃機編隊による名古屋空襲でした。
これが、ビラによる「地震の次のもの」だったのでしょう。
終戦の年、1945年(昭利20年)の1月13日にも愛知県で直下型の「三河地震」が発生しました。
M6・8、死者2306人に達する大地震でしたが両方とも当時の日本政府が全てを隠蔽し、被災地以外に知られる事はありませんでした。
1945年、すでに日本が攻撃を受けた地中からの爆破である人工地震で弱体化し、勝算なきを悟って敗戦を意思表明していたにもかかわらず、それをあえて無視してB29による広島・長崎への原爆役下が強行された。
ことの真相は、完成した原爆の威力がいかほど強力であるのか、データ収集になる形で空中使用するという、格好の人体実験としてあらかじめ決めていたからだ。
不可視な地中からの爆破と可視な上空からの爆破とを織り交ぜて、大きな成果を上げ、特に地中からの爆破である人工地震においては正体を隠したまま後々までも原爆のように人道的観点から国際的非難を浴びることもなく、爆撃機による爆撃以上に多大な損害を標的に与えることに成功したわけだ。
彼等の軍事機密会議では「人工地震兵器で津波を起こして日本を降参させて終戦するか、原爆を落として終戦するか」と決めかねていたが、結局、両方が使用された。
そして原爆に対する国際的非難をうわの空を装ってやり過ごした戦後半世紀に彼らが学んだことは、上空爆破よりも地中爆破、すなわち人工地震のほうが効果絶大で国際的非難を一切受けることはなく使いやすい。敵国を思いのまま攻撃あるいは脅迫さえできる手段であるということだ。