2011年08月13日

御巣鷹山の怪ーJAL123便の無念。






何度も申し上げている通り、JAL123便の事件は、グリコ森永事件→JAL123便→プラザ合意→バブルという、一連の社会、政治現象と密接な関係があります。

グリコ森永事件
https://blog.seesaa.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=217564030

JAL123便が御巣鷹山に墜落してから今日で四半世紀になります。
この事件にこだわり続ける私としては、まだまだ納得がいきません。
以前当ブログでもご紹介いたしました、この事件だけを扱ったサイトがありますので、ご覧頂いていない方は、先ずは一度訪ねてみてください。
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/2ae393ac6bf8cc30807ba140c33183f8

この管理者の方がクリスチャンであるようですので、まさか統一教会関連者?とか、執拗に追手が迫っている割には、その追手の写真を鮮明に撮影している点など、疑問に思う点はいくつかあります。

私は偶然にも、この事故が起きた時現場近くにいた方とメールで知り合う事が出来ました。

以下はその内容です。

この記事は昨年も掲載いたしましたので、永くお付き合いして頂いている方は読んだ記憶がおありと思いますが、重要な記事ですので、これらも毎年掲載させていただきます。


>>こんな講演があるとは驚きです。
途中**がありますが未だ公表できません.

目撃者で現地1番乗りの人?
というのが気になりますが、ほんとうに現地に行けたのでしょうか?
私は現地に行こうとしましたが行けませんでした。

墜落後10分程度で**のヘリコプターの編隊が現場に行っています。
我々はこの時上空から発見されたと思います。
だから我々のところに**がすっ飛んできたんだと思います。
墜落現場は墜落30分から1時間以内におそらく半径数キロにわたって完全包囲されたはずです。

私はこのときの光景が今でも夢に出てきます。
「危ないからとにかく離れろ!」血相を変えて顔面蒼白気味に叫びながらやってきました。
「何が危ないか! 生存者を助けないのか?」言ったのを覚えています。
「我々がやるから、とにかく離れろ!」
こんな会話だったと思います。
この**の包囲の内側に人がいたかどうか判りませんが、いてもおかしくは無いと思います。

この後また違うヘリコプターの編隊(たぶん**)が30分以上後にやってきました。
もう時間感覚がなく時間は定かではありません。
(落合さんの証言と同じで2回ヘリコプターの編隊を確認したという証言がありました。)
ただ落合さんは肝心なところで気を失っていたようです。(口止めかな?)

この部分は事件を考えるうえでは重要です。

前後しますが、少しづつ整理してお話します。話したくないところもありますが平にご容赦願います

0.背景
@防衛費GNP1%突破
Aプラザ合意
B自動車輸出自主規制枠
アメリカの***が上記を日本に迫り日米で激突していました。
アメリカの圧力
・自動車会社(トヨタ・日産・本田)の輸出自主規制枠
日本政府に伝わる前にホワイトハウスが知りアメリカが要求する枠
へ日本政府を誘導し自主規制枠をアメリカ主導で決める
・プラザ合意で円切り上げを20%(当初?)になるまで為替介入を
する。

結果79円まで円高が進んだと記憶しています。
アメリカ企業が日本に輸出し易く、日本がアメリカに輸出し難くする約束をさせられた!(だまし打ちに近いものでした)
・防衛費GNP1%枠の撤廃
米軍経費の思いやり予算を名目に日本の防衛費を、自主的に制定したGN1%制限枠を外した。
⇒日航の事故の時正にこれが国会で審議されていた。
・米軍と自衛隊合同による執拗な合同演習
⇒事故の日は下田沖で演習をやっていました。
(日本政府への圧力として)

1.伊豆半島沖での出来事の前
防衛費GNP1%枠の撤廃を国会で審議している最中、**に下田沖の演習の情報が入ります。

【このへんはあまり詳しく話したくありません。】

機長も困惑したはずです。

2.伊豆半島沖での出来事の後

機長は羽田に引き返したかったらしいのですが、結局機長は無事に着陸できる確立の高い選択をします。
(大変賢明な判断だと思います)
・ほとんど操縦不能なため管制誘導に一縷の望みを繋いだ
・管制誘導がだめでも着陸或いは墜落場所が確保される場所

この段階で横田基地方面を目指します。

横田基地管制は天使か悪魔かは知りませんが、執拗に着陸を誘導します。

日本****は横田基地着陸を拒否します。

行き場を無くしたJALは大月で急旋回後機長は腹をくくったのでしょう
山間部を目指します。
ダッチロール状態で横田を目指し旋回し方向を変える操縦は殆ど神業です。
(この拒否がなければ横田基地にもしかしたら無事着陸できたか
もしれません。)

3.墜落時−1(私が見たのはこれ:目撃者は少ないと思います)

目撃した場所から墜落現場まで1時間あれば行けたと思います。
【申し訳ありません話せません】
サイトの記載を見せて頂きましたが、墜落現場付近で戦闘の類は
私は見ませんでした。しかし違うものは見ました。
(戦闘には見えませんでしたが、戦闘機の類は現場周辺上空にいたことは間違いないと思います。音のみの確認)

目撃者に戦闘シーンを見た人がいるのですか?
またソ連機の残骸も見つかっているのですか?

これは私の推測ですが、この事件をサッチしたソ連が戦闘機を発進させ偵察に来たところを、日米合同演習の作戦中の飛来なので交戦状態になり相互に被害を出したが、結局ソ連機を撃沈させた。(このような場合ソ連は沈黙します。)
この事件を大筋理解している私からみるとありうる話です。
でもこの話は日航の事件中に偶発的起きた2次的な話と思います。
分けて考えたほうが良いと思います。

実はこの時中国も戦闘機を発進させています。
ソ連機の末路を見て帰還したのかもしれませんが、 しかし、中国は日航事件をほぼ全容把握しています。
日本の軍事に対する姿勢を野心と執ったのかも知れません。
この数年前にA級戦犯を靖国に移した事実をこの年から 軍国日本への警告として「靖国問題」として語っているのです。


ボイスレコーダーの信憑性ですが、私はこのように判断しています。
本来ボイスレコーダーは永久非公開です。
ではなぜ出てきたのでしょうか?
都合の悪いことは削除されていることもわかります。
悪意の人の情報操作の匂いがします。
しかし、よ〜く聞くと善意の人の必死の抵抗も感じます。
最終的には善意の人によるボイスレコーダーであると思っています。

(これについてはまた別途機会があればお話します。)

・一縷の望みであった管制誘導を断念し(機長としてできる全ての手段が断たれた後)横田アプローチに切り替え着陸態勢に入っていきます。
・***に横田アプローチが拒否されます。
・フライトレコーダ上では空白の無応答の時間があって、自らの判断で横田を断念し、被害を最小限に抑える機長判断から熊谷北西25マイル方面に飛んで行ったと当初は思っていましたが、ちょっと違う話も聞いてます。

この後横田管制は着陸をしきりに促し続けますが機長は全くと言ってよい程反応がありません。
(聞こえて無いような?:後から追加したような?)
墜落後も横田管制が「最優先着陸を伝え」その後「東京管制?」が横田アプローチを促します。

大月上空の時何故言わないのか疑問ですが!このへんで止めます。
(国としては適格な判断なのかもしれません。と言いたいところですが・・・・。)

4.墜落時−2(目撃者が結構いたはずです)

【申し訳ありません話せません】

現場の破片や残骸集めをしている人のことは聞いたことあります。
サイトの記載ですが、核兵器ですか?それなら私はきっと被爆したかもしれませんね。
でも私は被爆してません。
私はこの分野の専門家ではないので、判りませんが違うと思います。
最初に現場に行った人のインタビューも聞かせていただきましたが、
夜明け近い時間のようですが、包囲網が解除されていたんですね!


実は知っていますが言えません。(アメリカで聞いた話)
見た事に即しているので一応信用しています。

旅客機を運搬手段として毒ガス・核物質・核兵器の運搬?
横田管制が執拗に着陸を促しているので、何かあるのかもしれませんが信用できる人の情報でも上記の類の運搬については聞いたことありません。

5.墜落後

この事故の最大の悲劇がここから始まります。
【私は当然現場を見ていません。がここの話はアメリカ人:Aから聞きました。】

(内容は絶対話せません)

私は冒頭にもあるように**に追返されます。
キャンプに戻る途中警察や放送局の車とも出くわしました。
【余談ですが】
その10年以上後某放送局の友人と久しぶり飲んでる時、JALの話題が出て、この時局の車が現地近くで別の場所を指示 されたと言ってました。
あ〜!あの車ね!とピンときましたが、***が別の場所を指示したんだと思いました。
(だからスクープを逃したわけね!:結局8がお膳立てが整った後あの感動シーンになったわけね!:と独り言をつぶやいたのを覚えています。)

何年後か忘れましたがこの放送局でお話している時、事故当時警察無線を聞いていた人がいました。「なんか変だ!」と仰ってました。
また、あることを言い出しました。内容は話せませんが、警察も事故後数時間は近づく事も動く事も制限されていたようです。

6.この後
この事件の翌月9月プラザホテルで有名なプラザ合意がなされます。
宮沢さんが交渉にあたります。
確か12%だったと記憶していますが、円を協調介入でこの水準まで切り上げというものでしたが、20%以上まで切上た印象があります。(数字はもう忘れました!)

1985年日本は大きく変化させられました。また自ら変化もしました。
経済的には脱アメリカから中国・東南アジアに舵を切り始めます。
外需依存型から内需+外需共存を目指します。この当時50%近くあったアメリカとの貿易額は今は10%代まで落としてきています。

日本は1985年を境に経済一辺倒を止める決意をしたと思います。
先ず憲法の範囲で自衛隊の可能性を模索始めました。
インドネシアの基地、インド洋での給油、中東海賊監視、地中海での仏軍との共同作戦、米軍との実践を想定した演習
迎撃ミサイルの開発、・・・・・・・今では宇宙にも目が向けられています。
全てがここを境にしています。
JALの事件で日本は弱いことがいかに惨めかを知ったんですよ!<<

つづく。



posted by コスモ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック